日本の女子障害者スイマーの第一人者である。シドニー・パラリンピック大会で6つの金メダルをとり、国内の数々のスポーツ賞をもらった方である。そして、それは、幾多の困難を乗り越えて得られたものだった。
著者は、元NHKの代表的スポーツアナウンサーで、現在はフリーとして活躍している。この本を書くきっかけとなったのは、成田さんとインタビューでたびたび顔をあわせ、彼女から元気と勇気をもらったことがきっかけとなっている。
面白いことに成田さんは、健常者の時は、カナヅチだったのである。他のスポーツは得意な活発な女の子だった。中学生の時、突然、横断性脊髄炎という難病に犯され、車椅子の生活を送ることになった。「足をちょうだい。死にたい!」と叫び、まわりの人にあたりちらし、一時は自殺も考えた。
その成田さんが、3年間の闘病生活の末にたどりついた結論は、こうだった。「足が悪くなっても、成田真由美には変わりないんだなぁ。そう思ったら、メガネをかけている人と同じ感覚になってきた。」「視力が低くなれば、メガネをかける。足が悪くなれば車椅子に乗る。」そして、リハビリに専念した。
社会復帰の第一歩として、先ず、車の免許をとった。しかし、横断性脊髄炎のほかにも、気管支喘息、心室性期外収縮、原因不明の頻脈と低カリウム血症を患い、22才まで20回以上も入退院を繰り返している。
そのつらい闘病生活の中で、「足が不自由になっても、幸せを求めることは可能だ。生命は何ものにも代えがたい大切なものだ」ということを確信したのである。
退院後、横浜市の障害者スポーツセンターで、宍戸かつ子さんや、金城充男さんらと出会い、水泳をはじめることになった。リレーメンバーの足りない宍戸さんは、「仙台での障害者水泳大会にでない?」と成田さんに声をかけた。そして、食いしん坊の彼女は、仙台名物と七夕祭りにひかれて、参加することを決めたのである。
リレーで勝つことはできなかったが、成田さんは、25メートルと50メートルの自由形で大会新記録をだし、優勝したのである。
喜びもつかのま、帰りの東北自動車道で、成田さんの車は居眠り運転の車に追突され、大怪我をするのである。頚椎を損傷し、両手はしびれて動かないほどの重傷だった。またまた、5ヶ月の長期入院生活となってしまった。ショックのどん底に落ちた彼女も、家族や、障害者仲間の励ましで、乗り越え退院した。
この時の後遺症として、体温の調節機能がおかしくなり、現在でも続いている。だから、彼女は、練習中でも時々、頭から水をかけてもらい、体温をさげてもらう必要があるのである。また、夏の蒸し暑い時は、スプレーを持っていて、体温を下げるということをしている。
だが、退院後、成田さんはまた、水泳に復帰し、1995年アトランタで開かれたプレパラリンピックに参加し、3種目に世界新記録をだして優勝してしまったのである。
帰国後、競技者のようなレベルの高い泳ぎをしたいという熱意に燃えた成田さんは、いろんなスイミングクラブへ電話をするが、全部断られてしまった。ところが、また入院中に隣のベッドの人から横浜サクラスイミングを教えてもらい、ついに運命の福元寿夫コーチと出会うのである。
福元寿夫さんは、元全日本代表をつとめた水球選手で、このコーチのもとで、二人三脚のトレーニングがはじまるのである。(医者は心臓の障害があることから、成田さんの競技水泳に反対していた。)福元コーチも障害者を教えるのは初めてで、手探り状態から、練習は一時間、距離は千メートルというやり方に落ち着いてきた。
福元コーチの言うには、「成田さんの場合、下半身が麻痺して動かないので、キックができない以外はまったく健常者と同じです。目標や熱意がはっきりしている分だけ、精神面では、むしろ健常者より優れています。」
「普通コーチが選手に対して一番手を焼くのは、いかにモチベーションをあげ、それに向って地味でつまらない練習を繰り返し、繰り返しやらせるかという事です。その部分を真由美がわかっているのですから手がかかりません。このメンタル面のすごさにはビックリします。障害に会い、それを乗り越え、克服してきた訳ですから、練習に対して非常に前向きです。」
1996年のアトランタ・パラリンピックでは、金メダル2個、銀メダル2個、銅メダル1個の素晴らしい成績をあげた。また、当時の第一人者、ドイツのカイ・エスペンハイ選手と出会い、友情が芽生えた。彼女はこの大会で、希望と友情と感謝の心を掴んだのである。
その結果、厚生大臣賞をはじめ、いろいろな賞を受け、また講演の依頼も多くなった。特に中学からの依頼が多いそうである。
スポーツ選手につきものなのは、怪我との闘いである。シドニー目指して練習を再開した彼女にまた、ハードルが待ち受けていた。右肩を壊してしまったのである。傷みを抱え、あらゆる医者にかかったがよくならない。
最後に世田谷区にある「メディテルム奥沢」で診察を受け、「腱板部損傷」という診断で、手術か筋力を鍛えるかの二者択一となった。悩んだ末、苦しい筋力トレーニングを選んだ。
ところが、トレーニングの成果が出始めた頃、腹部に激痛が走った。かなり大きな「子宮筋腫」だった。すぐ手術をして、摘出した。
もう、シドニー・パラリンピックまで何もないだろうと思っていたら、お父さんが脳梗塞で倒れ、入院した。困難に直面すると、それをバネにして挑戦するのが真由美流であるようだ。彼女は、水泳の練習と筋力トレーニングと父の見舞いとを毎日続けたのである。
そして、ついに2000年のシドニーパラリンピックで世界新記録を次々にだし、6つの金メダルを獲得し、「水の女王」になった。そして、内閣総理大臣賜杯などでまたまた表彰されるここととなった。
それから、今年5月には、真由美さんの車椅子を製作した桑形智さんとついに結婚し、個人的にも幸せが訪れたのである。彼女の次の目標は子供を産み、次のアテネパラリンピックに出場することである。
涙と感動の物語である。中学生の時、突然、下半身麻痺になりながら、それに負けず、他の病気や事故など、いくたの困難を乗り越え、目標をたて、それを達成してきた、その精神力は、我々健常者が学ばねばならないと思います。
また、この著者のように成田さんから、生きる勇気をもらい、妻の急死のショックから立ち直った人もいます。障害者の彼女が多くの健常者を元気付け、生きる希望を与えているのです。
真由美さんは言っています。「強い心がなくては、障害者は生きていけませんから。」と。しかし、それはまた、我々甘えている日本国民に対して言っているようにも聞こえました。
詩国三十年の苦しみと悲しみ
それはわたし一人が知るもの
どん底に突き落とされ
救いを求めて
天地に祈ったりした
苦悶の声を
知る人はなく
石や木や鳥たちだけが
知ってくれた
今でも夢のなかで苦しみ
寝巻きの濡れることがある
でも助けて下さる
神があり
仏さまがあり
ここまで辿りつくことができた
無常流転は
宇宙の定め
二度とない人生を
これから更に精進し
無限の光を求めてゆこう
この信のある者は、耳に聞こえるどんな声でも、仏の教えとして味わい、喜ぶ智慧が得られ、どんな出来事でも、すべてみな因と縁によって現れたものであることを知って、すなおにこれを受け入れる智慧が得られる。(華厳経)
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