今回は、カンボジアで現在、植林活動や福祉活動や、日本語を教える寺子屋等をされている僧侶の渋井修師からの報告です。先生は{文芸春秋}にもとりあげられた方で、蓮華院国際協力協会(ARTIC)の活動の一部をカンボジアで実施していただいています。 【 豊かなるカンボジア 】 (渋井修師カンボジア・レポート) {まさか}という言葉があるが、ここではそのまさかということがしばしば起こる。いや、この言い方は適切ではない。私達が考えている{まさか}がここでは常識なんだと考えた方がいい。するとカンボジアで起こる出来事に納得がいくのである。 一昨年より車の運転をしているのであるが、ここでの運転に慣れてしまったら、もう絶対に日本での運転などできない。一応、交通法規はあるのだが、殆ど守られてはいない。つまり運転者自身が交通法規など知らないのである。 プノンペンの自動車教習所で法規の勉強をしていた時のことである。教官が法規の授業で、{国民の80%は交通法規を知らないで運転しているから、いくら自分が法規どおりに運転しているからといって安全だと思ってはいけない。いつ、どこから、車やオートバイ、自転車、歩行者が出てくるかわからないから、くれぐれも気を付けるように}と教えられたのである。 そして授業の終わりに、{法規の試験は来週の日躍日ですので、皆さん頑張って下さい。今教えたことが試験に出ます。もし都合で試験が受けられないとか、受けたくない人は事務所で10ドル払えぱ合格したことにします。}と言ってくれたのである…。免許制度はあるにはあるが、無免許でも運転できるのである。 一応右側通行なのであるが、左側を走って来る車やオートバイをよく目にする。交差点では先に入った車が優先である。方向指示機が付いている車も、付いていない車もありますが、特に方向指示機を出さなくても左右どちらにも曲がれます。急いでいる時も急いでいない時も黄色いセンターラインをオーバーして車を追い越すことができます。 車は動きさえすれば、ナンバープレートがなくても、フロントガラスがなくても、バックミラーがなくても、ドアがなくても、ライトが付かなくても、方向指示機が作動しなくても、道路を走れます。2トン車でも3トンは積めるから、重量オーバーを気にすることもない。荷台に人を載せてもいいので、30人、40人と載せている車を見かける。速度規制もありませんから、ドライバーのカ量でどうにでも運転できます。
日本人がカンボジアを見るときの貧しさとは、そのほとんどが目に映る外形的な物である。つまり物質的な貧しさに偏っている。心の問題にはほとんどふれられていないのであ る。 もし単純にカンボジアは豊かか、貧しいか、と問われれば、私は{豊かである}と答えます。 まず第一に暑い国なので、衣服はたくさん要らない。寒さから身を守る必要がないので、家も屋根と簡単な壁、床があればいい。台風も地震もないから、柱も細い物でいいし、基礎も簡単でいい。水道、電気、ガスがなくても生活していけるし、食べ物は豊富だから、餓死する人もいない。税金がないから、仕事がなくても暮らしていける。生活のリズムがゆつたりとしているので、慌てる必要がない。 これだけ比べても、日本よりはるかに暮らしやすいことがわかるでしよう。つまり日本より豊かなのです。ただしその裏には何の保証もないことを考えておかなければならないでしょう。 外形を見て貧しいと思うのは、見る者の心が貧しいからそう映るのであって、彼等自身は貧しさを感じて暮らしているわけではない。かつての日本も同じである。 当時(60〜70年前)生きていた人が貧しさを感じて暮らしていたわけではない。今と比べれぱ当時は貧しかったかもしれない。それはあくまでも現在と比べるからであって、当時はそれが普通であったのだ。結核にかかれば、不治の病で死を覚悟しなければならないし、小学校に行ければいいほうで、中学、高校、大学は夢のまた夢であっただろう。地方の人が東京にでるなんてことは、一生に一度あるかないかであっただろう。 私達の子供の時代を考えればわかるでしよう。家は木造、冬の暖房は炭か練炭かコタツ、ガスの風呂があっただろうか。もちろんクーラーなどありません。車も冷蔵庫も洗濯機もありません。それで貧しさを感じていただろうか。その時代で、それなりの豊かさを感じていただろうと思うのである。物質的豊かさと共に、かって感じていた豊かさというものが、現在ではなくなってしまったことも事実だろう。 豊かさと貧しさを比較において規定するというのは、おそらく間違いであろう。それはその時代、その時にどうであったかが重要なのではないでしょうか。その意味では、現在 のカンボジアは決して貧しくはないと思うのです。(終) |
軽くなろう |
教えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえて、おのれに克つことに努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。 貪(むさぼ)ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。 もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。心に従わず、心の主(あるじ)となれ。
心は人を仏にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい。 |
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