既に30年も前、ローマクラブは『成長の限界』を発表し人類に警鐘を鳴らしたが、世界は欲望のままに突っ走ってきた。その結果は前回書いたとおりだ。今の物質的繁栄は何時まで続くのか。私はそう長くはないと感じている。
私は過去、ミャンマーで農村開発の仕事に携わったことがあるが、私自身はこのことを国際協力だとか開発援助だとは思っていない。確かに今流に分類すれば国際協力NGOの仕事だが、私自身の活動目的は、新しい価値観を持った循環型社会の創造であり、これが私のライフワークだと感じている。
ミャンマーの田舎には釈迦の教えを宗教としてではなく、日々の生活の中に守り従い実践している人々の営みがあった。そこには2500年以上営々と連なってきた仏教文化が存在する。即ち、日常生活の中に日々仏陀を感じながら生きている人々の生活である。目に見えないものをはっきりと知覚し、感謝と畏敬の念を忘れず、民族の誇りと自立心を維持しながら恥の文化が存在している。
20才前後の若い農民研修生ですら、朝晩に経を唱え仏壇に額ずく。14年間一人森の中で修行され、悟りを開いたと人々が信じる今は亡き高僧は、生前、仏陀が現インドのサルナートで5人の弟子に説かれた初転法輪の言葉がまだ空中に存在し聞くことが出来ると仰った。
しかし、そのような素晴らしい生きた精神文化の風景も経済の波の襲来とともに見られる場所が段々少なくなってきている。このような精神文化の風景は今の日本やアメリカの物質的豊かさを享受したが故に病んでしまった社会の対極に位置しており、そしてそれは同時に21世紀の新しいパラダイムを開く鍵でもあると考えている。
お金を中心とした経済至上主義が競争原理を生み、人々を利己主義に陥れ、自分さえ良ければという社会を創ったことを考えれば、その逆をたどれば元通りになるのではないかとも思う。
つまり、古来日本の農民が持っていた自然を畏れ敬う心をもう一度育むこと。農産物を得るために田畑に肥料を投入するのではなく、自然の恵みに感謝し、神楽を舞い、収穫物を神に奉納し、お礼堆肥を入れることによって、自然と人間の問に与え合う循環が再生される。自分が生きているのではなく、生かされていることを自覚し生きることが、本当に生きることであり、誰でも自分が毎歳まで生きるかということを知らないこと自体、自分で生きているのではない証拠ではないだろうか。
増大する地球人口を人間の力で止めることはできないが、食糧が足りなくなれば自然と減少するだろう。狼が絶滅すれば、天敵がいなくなって鹿が増える。しかし、一時的に増えた鹿も食料がなくなればまた減って安定する。人間には天敵がいなかったが、人間の天敵は自らの欲望であった。所詮人間も地球の生物の一種に過ぎない。
生前吉田東洲先生は「人間の持つべき文明」とは、持つべからざるものは何かを考えれば自ずと明らかになると諭された。21世紀に入ったが人類の課題は前途多難である。人口爆発、食糧危機、地球温暖化等の環境問題解決は、現在のパラダイム(民主主義の政治と資本主義の経済)では不可能である。
西洋に端を発した現在のパラダイムは近い将来崩壊する。その時我々は、日本やアメリカが先進国でないことをはっきりと自覚し、「人間の持つべき文明」に目覚めるであろう。
循環型社会とは与え合う循環が「自然と人間」の間にも「人と人」との間にも存在する21世紀の新しい価値観を持った豊かな地域社会のことであり、テラトピア計画は、志を持って生きる人々が平和で豊かな地域社会を創造する実践の場である。地球市民運動が地球維新運動である所以である。(れんげ農苑長 平野喜幸)
すべてのものは互いに関係して成り立ち、互いによりあって存在するものであり、ひとりで成り立つものではない。(維摩経)
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