今回はロボット博士で有名な森政弘先生の著書のエッセンスを皆様に御紹介させていただきたいと思います。
(森政弘著 佼成出版社刊より)
{結論}
主体性を持った人は、必ずしも人がいい人ではない。
主体性を持たず、頼みごとを断りきれないで人のいいなりになる人が、一般的に言われる人がいい人になる。
だから、{人間は、エゴではなくセルフにもとづいた主体性を失わずに、良い人になろう。}
{空(くう)} ホンダの創業者本田宗一郎氏は、心を{空}にするとは、次のようなことだと言っておられた。
{空とは、からっぽのことではない。たくさんの知識や経験が心の中にいっぱい入って いるのだが、いろんな教えとか人の意見などを聴くにあたって、そのいっぱい入ってい るものが邪魔をしないような、そういう心の持ち方を言う。
うっかりすると、われわれ人間は、専門とか知識とか信仰とか信念とか善とか、よいものを持っていれば持っているほど、聴くに際してそれがフィルターになって、聴いてもありのままに聞けず、視てもありのままには見えなくなってしまう。
さらに、それらが反射板になって、反発したり拒否反応を起こして、聴くことも視ることもできなくなってしまう。これは空とは言いがたい。
そして、心を空にすることは、仏教の基本であり、いや仏教だけでなく、人間の基本 である。これがなければ、経営もできない。技術開発もできない。正しい判断ができないのです。}
{われ}
根本的に思索してみると、表層面の「われ」は、否定されるべき、次元の低いエゴに過ぎないことが分かってくる。
そして重要な点は、私たちは、このエゴを動かしているように思っているのだが、じつはそれは錯覚であって、私たちが、そのエゴなるものによってコントロールされているというのが事実なのである。
この点に気付くことができれば、われわれは心に翻弄されず、心を操縦する主体となる ことができるようになる。{心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ}
{二元論}
科学的・二元論的な思考とは、{AでなければBだ、BでなけれなAだ}という考え方と言ってよい。たとえば、正しくなければ間違いだ、間違っていなければ正しいとか、生でなければ死だ、死でなければ生だ、という考え方である。
だが今日、その二元論が終焉にきたのである。今や、臓器移植・試験管ベビー・代理母・廃棄物・地球環境…などをはじめ、二元論ではどうにも解けない難問の山積となった。たとえば二元論では、生きることと死ぬこととは正反対だと考える。
正反対と考えるだけならばまだよいのだが、そこへ煩悩(エゴ)に根ざした価値というものが重ね合わされて、生は絶対的によいが死は絶対だめというような傾向が強くなりつつある。
二元論を超えて、より上の次元から見れば、生も死も、大きい意味で生きているという ことだ。今や、こう考えなくてはだめな時代になっている。
この考えは、人工臓器や医学の研究を否定するものではない。二元論を超えるとは、生も、死も、人工臓器も、科学も、不必要なものはないという考え方になることである。すべてを意義あらしめるようにすることである。
また、ごみや資源についても同様である。ごみと資源は正反対だと、二元論的に児ていたのでは廃棄物間題は解けない。次元を上げて、ごみも資源だと考える必要(無理にそのように考えるのではなく、本来そういうものなのだが)に迫られてきたのである。
このような考え方を、{二元性一元論}といい、世の中の難問や矛盾の解決に役立つのではないか。そして、これはそもそも仏教的な考え方なのです。
{価値について}
A.{親指は親指の法位(真如)に住し、小指は小指の法位に住す。}
親指という存在はそれなりに絶対。小指もそれなりに絶対。どれが上等で、どれが下等とか、どちらが主でどちらが従とかいうものではなく、しかもそれぞれが限りなく尊いものである。
B.{三性(さんしょう)の理}
もともと無記(善悪以前のもの、善でも悪でもないもの)であるものを、活かすように人間が制御して用いれば善として働き、制御を失すれば悪となる、という理。包丁で考えれば、わかりやすい。
{仏教即非仏教。是名仏教。}
本当の仏教とは、いわゆる仏教というものを超えている。それこそ本当の仏教である。
自動車にはアクセルとブレーキが必要なように、安全に走る〔走〕は、(走)とその反対の(止)とを含んでいる。
一つの事柄がスムーズに(全機能が発揮されて)進むには、それを加速するアクセル的なプラスの要因と、それとは逆のマイナスの要因とが不可欠で、その+と―とがたがいに協力していく必要がある。
{一見}の見方
{ガスこんろは、燃えるようにするものか、それとも燃えないようにするものか?} 答えは{燃・不燃}。つまり、鍋などには火勢がよく伝わるが、それを置く台には伝わらないようになっている。
燃えるようにするだけ、あるいは、燃えないようにするだけのものと考えるのは、仏教では、{二見}に堕しているという。
つまり、対立や二見、二元論を---超えた---ところに、本当の{正しい}がある。
{善にご用心}
皆、悪に対しては用心するが、善に対しては、注意しながら運用するという事は少ない。善だとなると安心し、しかも自分は良いことをしているのだという自負心も手伝って、やりすぎ、コントロールが外れてしまうことがある。何故なら、善に執着しすぎているからである。じつはここが恐ろしいところなのである。本当の〔善〕は、善(用心せよ)と悪(善に転じよ)を超えたところにある。ということである。
{自他一如}
この見る者だけを自分だと思うのは、(ごく普通のことなのだが、)実は錯覚といってもよいのである。
母親と赤ちゃんの関係や主人とその家族の関係をかんがえれば、自他一体というのはわかりやすい。
キリスト教では隣人愛を説く。これはおそらく、主人と家族の関係を社会一般にまで広げ、分裂や対立を防ぎなさいということなのだろう。
宇宙にまで{自分}が広がったかた、そのおかたを仏といい、神という。宇宙全体が自分になれば、すべての人、すべての物が、自分の体と同じように大切に感じられるようになるはずだ。この時、{自分}が高められて{自己}になったと表現してもよいと思う。このことを{セルフが確立した}というのであり、エゴが転じてセルフとなるのである。
{無自己実現}
自己・自分・自我・主体性…・など、いろんな言葉で表現されている「われ」というも のに関して、ゆめゆめ間違えてならない点は、セルフとエゴとをごちゃごちゃにしないことである。セルフを育てて、エゴは消すべきである。
この意味において、教育界でひんぱんに使われている{自己実現}は、自己を忘れることがその必要条件であり、自己を忘れてこそ前記のように個々の個性が余すところなく発揮され−−これを全機する(全機能が発揮される)と言う−−、しかもそのそれぞれの個性が互いに活かし合うのである。これを{無自己実現}と言う。自己実現は{無自己実現}でなければならない。
{愚人謂(おも)わくは、利他を先とせば、自らが利省かれぬべしと、しかにはあらざるなり。利行は一法なり。普(あまね)く自他を利するなり。}{修証義}
{生きるべく余儀なくされている人間}
生・死という二大瞬間には{われというものはないのである。つまり、自分の意志というものは全く無視されているというか、全く自分の意志とは無関係に、事柄が進行していくのである。
要するに人間は、自分の意志ではなしに生まれてきて、自分の意志に反して死んでいく。その間は、死ぬのはいやだが、、生きるのもいやということが多いのではなかろうか。ああ!生きていていいなあ!と感じる日は非常に少ないのではないか。つまり人間という存在には、生きるべく余儀なくされているという面があるのだ。
本来わがものでないこの人生をわがものとして受け止める。やらされているのに違いないことを、みずから進んでやろうとするように切り換える。すると、本当に面白い世界が展開する。それができる人は自己がしっかりしているのです。
そして、それができると、仕方なしに、しきるべく余儀なくされていたあなたの不満が逆転して、生かされているという感謝と喜びに変わるのです。そのとき、あなたの精神に活力がみなぎってくるのです。(内観をすると、まったく同じことが起こります。)
森先生のおばあちゃんは、{合掌はお願いではなく、感謝だよ}とよく言っていた。
{主体性の有無によって事柄は逆転する}
同じ地獄の中に留まっていても、主体性の有無によって、次のような差が生じる。
主体性がない人ーーーー地獄から脱出することができない迷った衆生
主体性がある人ーーーーその迷った衆生を救出しようとして、わざわざ地獄に入った人、すなわち菩薩(神の使者)
主体性がないと、自己が分裂している状態になりやすく、何でもいやいやしているから、面白くないし、疲れやすいのです。
{遊戯(ゆげ)}
自分の足に怪我をしたような場合、足に治療してやるとか、足に治療をさせられるというような他人事的な気持ちはありません。このように、仕事をしていても、勉強をしていても、やらされているという気持ちがない状態が、高級な意味での遊びであり、{遊戯三昧(ゆげざんまい)}という。しかもその遊んでいる最中は、夢中でわれをわすれている。これを{三昧、三昧を知らず。}というのです。
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マザ−・テレサやシュバイツァーのように他に奉仕する{人のいい}人生を選んだ方もいます。一見主体性がないようですが、自分の決心により、主体性を持って、人のいい人になったわけです。
また、AかBかのように対立させて考えるのではなく、それらを包含し、超える方法や解決はないか、視点を変えて考えてみるのも幸せへの入り口かもしれませんね。
そして、仕事でも遊びでも自分からすすんでやるのが、何でも楽しくするコツなのではないでしょうか。{わがものと思えば軽し傘の雪} 合掌
捨てて拾てて
捨て得ないもの
それは一遍上人にとっては
ナムアミダブツであり
わたしにとっては
詩であり
母にとっては
遺された五人の子であった
捨てて捨てて
捨て得ないもの
それには人それぞれのものがあろう
でもあくまでそれは
財産でもなく
名誉でもなく
地位でもなく
他のために尽くす
無償の愛でありたい
かつてない狂乱の時代に生まれきて
静かに一隅にあって
花を愛で
拾てて捨てて
拾て得ないものを
わたしは今日も乞い願う
ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのでなく、善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。二つに分けるのは人のはからいである。
はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味を持つものとなる。(Mahamaya-sutra)
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